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書評が『Fuji Sankei Business I 』(2019年1月7日号)に載りました

微型小説の形式と技法

渡邊晴夫

 

Ⅰ、微型小説の形式

短篇より短い小説には長い小説では考えられないような形式が可能である。たとえば抜き書き体、対話体、独白体、書簡体、シナリオ体などの形式である。これらの中には短篇や長篇でも可能な形式もあるが、まずどういうものか一つひとつ見てゆくことにしよう。

 

一、抜き書き体

 大正の末年コントの流行から掌小説というジャンルが誕生した時に紹介されたマーク・トゥエーンの「夫の支出張の一頁」は、とりわけ短い形式にして可能な作品である。岡田三郎がそれにならって「或る女の出納簿」というコントを発表している。中国では一九八〇年代に入って微型小説が盛んになった時、外国のさまざまなショートショートの作品が日本以上に目配りよく広い範囲から集められて、『外国微型小説選』、『世界微型小説選』などと銘うたれた選集が多数出版されている。最近では全十巻に及ぶ大判の『世界微型小説名家名作百年経典』(吉林出版集団有限責任公司、二〇一〇年四月)も出版された。そうした選集に収められているマーク・トゥエインの作品を見てみよう。

 

  夫の支出張の一頁

      マーク・トゥエイン作・阿凡訳

 女性タイピスト募集の広告代  (支出金額)

   女性タイピストに一週間くり上げて支払った給料(支出金額)

   女性タイピストに買って贈った花束(支出金額)

   彼女とともにした一回のディナー (支出金額)

   妻のために服を買う      (多額の支出)

   妻の母にコートを買う     (多額の支出)

   中年の女性タイピスト募集の広告代(支出金額)

   (『中外微型小説鑑賞辞典』張光勤、王洪主編、社会科学文献出版社所収のテキストより訳出)

 

 この作品(?)の解説は不用であろう。無味乾燥な支出の名目と金額が何を語っているかは、読者の想像にゆだねられている。若い女性タイピストを雇ってから中年の女性タイピストを募集するまでにどういう事件があり、それがどう解決されたかを読みとることは難しいことではない。こういうアイディアを思いつくトゥエーンはただものではないが、これにならって作品を考える場合、設定と内容の工夫が必要だろう。

 中国ではこういう形式を「摘録(抜き書き)体」と呼んでいる。この形式の作品で興味深いのは、陳亭初「提昇報告」(昇進提案の報告)である。

 

   昇進提案の報告

                    陳亭初

一、李力男、現在二十五歳、北京大学中文系卒業。二十歳から作品を発表しはじめ、すでに小説を二十数篇発表している。この同志は一定の組織指導の能力をもっているので、文芸課課長に昇進させたい。

人事部

一九五八年七月

   すぐれた後継者であるから、養成を強化しなければならない。下部に下放させて一定期間鍛えてからにしたい。

文化局党グループ

一九五八年八月

 

二、李力男、現在三十一歳、大学卒業後文化局に配属され勤務、一九五九年春機械工場に下放した。工場着任後本来の仕事を成し遂げた以外に、現実の生活を描いた作品を多数創作し、併せて一群の業余作家を育てた。かなりすぐれた業務水準と組織能力をもっているので、工場の文芸課課長に昇進させることを提案したい。

      人事部

一九六四年九月

   この同志はかなりすぐれた業務能力を有するが、政治学習の把握はまだ不十分で、インテリ臭が強いので、さらに一定期間の試練を与えるべきである。

               工場党委員会 

  一九六四年十月

 

三、李力男、現在四十六歳、五十年代に北大を卒業。卒業後、事務所と工場で文化関係の仕事に従事した。〝文革〟の時は反革命と断定された。一九七八年無実の罪が晴れ、本人の申し出にもとづいて機械工場の技術学校にもどって国語教育に従事している。本人が多くの文芸作品を発表し、この方面にすぐれていることを考慮して『職工文藝』の編集長を担当させたい。

           人事部

   一九七九年二月

  この同志の業務水準は申し分ないが、惜しむらくは党員ではない。党が指導する文芸刊行物としては、編集長が党員でないのはよろしくない。

               工場党委員会

 一九七九年三月

 

四、李力男、現在五十一歳、大卒、一九八二年入党。三十数年来、いかなる状況のもとでも、終始党に信頼をもち、併せて影響力のある文芸作品を多数書いている。高い文化芸術の素養と組織能力を有している………文化局に移動させ、副局長に任命することを提案する。

          文化局党グループ

 一九八四年四月

   この人物は確かにすぐれた人材だが、当面する幹部若返りの要求に基づけば、年齢が制限ラインをこえており、指導グループに入れるのは適切ではない。

                  組織部

              一九八四年六月

 (江曾培主編『世界華文微型小説大成』上海文芸出版社、一九九二年、所収のテキストより訳出)

 

 所属組織からの昇進提案の文書とそれに対する上部組織の拒否の回答の文書が並べられているだけだが、注意深く読めば一人の才能がありすぐれた創作能力と組織能力をもつ人物が建国後の知識人軽視と差別の方針によって節目ごとに昇進を見送られ、ようやく認められた時には年を取り過ぎていたという悲劇が浮かび上がってくる。文書の末尾の日付けは背景となる時代(一は大躍進のさなか、二は文革前の左傾の時期、三は文革後名誉回復の時期、四は改革開放の時代)を示すもので興味深い。

 この形式の作品には彭達「来訪登録簿摘録(来訪者記録帳抜き書き)」、韓石山「報告与批示(報告とそれに対する指示)」、鄧開善「一個学徒工某月的支出(ある見習い工の或る月の支出)」などがある。日本の佐藤春夫「魔女二題」は「私立探偵社報告書抄録」と「家出人人相書」という短い二つの文書からの抜きである。これもマーク・トゥエーンの作品がヒントになって書かれた作品である。

二、対話体

短い小説は対話だけで作品を成り立たせることも可能である。たとえば次の作品は母と子のきわめて短い対話から成っている。

 

  大統領になった夢

                    諶 容

「パンパン、はやく起きなさい!」

「まだ暗いよ!」

「朝起きて宿題をやるって、ゆうべ言ったでしょ!」

「うん――うん、ぼく夢を見ていたんだ………」

「夢はいいから、はやく服を着なさい、パパにぶたれますよ!

「ママ、ぼくほんとうに夢を見ていたんだ………」

「はい、はい、いい子だから、言うことをきいて、はやくなさい、腕を上げて!」

「ぼく夢で大統領になったんだ!」

「算数がだめで、大統領になれますか!足を伸ばして!」

「ほんとうだよ、ぼく命令を出したんだよ!ぼく………」

「足首を伸ばして!」

「学校を取り締まる大臣がぼくの前に跪いていて、ぼくは高い椅子に坐っているんだ、偉いんだ!ぼく命令したんだ………先生の子どもにたくさん宿題を出しなさいって!」

(『中外微型小説鑑賞辞典』張光勤、王洪主編、社会科学文献出版社所収のテキストより訳出)

 

 わずかこれだけの、原文で百五十字の字数である。この短い紙幅に意外に多くのメッセージが盛り込まれている。甘やかされて育ち、小学生になっても着替えを母親に手伝ってもらっている子ども、子どもの相手はしているが、そのことばときちんと向き合おうとせず、宿題ばかり気にしている母親の対応から一人っ子政策の問題点と厳しい受験競争が浮かび上がってくる。中国の子どもをとりまく環境は厳しく、この母親のもとで子どもは正常に育つことができるのだろうかと考えさせられる。

対話だけで長い小説を書きあげるのはむずかしい。対話は短い小説だからこそ可能な一つの形式である。対話だけで構成された作品に韓冬「隔墻対話(壁ごしの対話)」、紹六「一個複雑的故事(或るこみいった話)」などがある。

三、独白体

本号に中国語訳が掲載される太宰治「待つ」は一人の女性の独白から成る短い小説である。独白体が短篇でも長篇でも可能な形式であることは、日本文学の芥川龍之介「藪の中」、中野重治「五勺の酒」、井上靖『孔子』などで明らかであるが、短い掌篇でも有力な形式である。現代の中国の微型小説では葉文玲「伉儷曲(夫婦の歌)」、謝冰心「万般皆上品………一個副教授的独白(どれもこれもみな上等………ある助教授の独白)」、母国政「含羞草(おじぎ草)」などが独白体で書かれている。

四、書簡体

書簡体は欧米における初期の小説の有力な形式で或る尼僧の書いた「ポルトガル文」、リチャードソン『パメラ』、ラクロ『危険な関係』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』など著名な作品が多数ある。手紙の長さと数によって長くもなれば短くもなる。現代の中国の微型小説では一通の手紙とそれに対する返信というひと組の往復書簡という形式をとるのが普通である。次の作品は都市に住む夫から農村で暮らす妻への手紙と妻からと夫への返信から成っている。

 

  二通の家族への手紙

                  無名氏

 

淑賢へ

ぼくらが寝ても覚めても願っていた農村から都市へ戸籍を移すことがやっと実現した。家の食料、油と戸籍を田舎から移すようにしてください。お忘れなく!

うまくいくよう願っています。

               夫 志林

               何月何日

 

志林へ

こんにちは!お手紙を書こうと思っていたら、あなたのお便りをいただきました。わたしが喜んだと思いますか、がっかりしたと思いますか。最近わたしは家で自動養鶏場をはじめましたが、技師がいないのです。募集の掲示を八県四市に貼りだしましたが、たぶんこちらの求めることが高いためでしょう、まだ訪ねてきた人はいません。このためとても焦っています。あなたは今でもわたしのことを考えていてくれますか。もしわたしのためを思ってくれるのでしたら、どうぞ勤めをやめて、大至急帰ってきてください。お願いします。

あなたの前途が洋々たるものでありますように!

               妻 淑賢

               何月何日

 

近年異動が緩和されつつあるようだが、中国の戸籍は農村の戸籍と都市の戸籍とに分かれていて、その間の異動は厳しく制限されていた。経済的におくれた農村から繁栄する都市に戸籍を移すことは、難しいだけに夢であった。この作品は農村の生活の変化と向上がかつては一致していた夫婦の願望に変化を生じさせたことを伝えている。このあと夫妻の生活がどうなったかは、すべて読者の想像に委ねられている。呉若増「又及(追伸)」、唐訓華「両地書」なども二組の手紙からなる興味深い作品である。日本の掌篇では村山知義「脱走少年の手紙」があるが、往復書簡ではなく少年の告白二通からなる作品である。書簡体は小さな容量にかなり豊富な内容を盛り込むことが可能な一つの形式である。

五、シナリオ体

戯曲、シナリオの短いものも一篇の掌篇となる。北尾亀男「或る別れ」は掌篇といってよい短い戯曲である。菊地寛「世評」は一幕二場の掌篇の戯曲である。中国ではこれに相当するものを「短劇体」と呼んでいる。中国の作品では映画のモンタージュの手法で書かれた王青偉「!――?」がある。

 

気味の悪いほど静かでひっそりとした夜、星がはるか遠くの天空からこの大きな、古い都市をじっと見下ろしている……

突然、耳をつんざくような、けたたましい怪しいもの音が、夜のしじまを破る……

 

この書き出しにつづいて、A運転手(にやにや笑いながらクラクションのボタンを押しつづけている)、B将軍(ベッドからとび下り、三十年代に地下活動をしていた頃の警察の車のサイレンを思い出して苦笑している)、C作家(騒音に悩まされ、手で耳を押さえている)、D母と子(熱があって泣き叫ぶ子を必死であやしている母親)、E裁判所長(訴訟記録を調べていたが、思考を中断されて怒っている判事)というように、映画のシーンの説明に似た文章が相互の脈絡なく並んでいる。共通項は車のクラクションの騒音である。最後に「F星!――?彼女はまばたいている……」となっている。作者は関係のない場面を重ねることで一つの印象を作り上げようとしている。「!――?」という奇妙な題は作者が読者に解釈をゆだねたことを示している。いろいろな読み方ができる。鄧開善「音符」、那家佐「古老的伝説」もシナリオ体の微型小説である。

以上五種類の形式を見たが、このほかに詩に近い形式の作品もあれば、散文(エッセイ)に近い作品もある。短い小説はその短さのゆえにより長い短篇や長篇ではあまり有効ではない形式が可能となるのである。

 

Ⅱ微型小説の技法

 微型小説に特有の技法としてすぐ思い浮かぶのは、作品の落ちである。ロバート・オーバーファーストはショートショートの三要素として一、新鮮なアイディア、二、完全なプロット、三、意外な結末をあげている。このうちアイディアは星新一がもっとも重視し、それに骨身を削ったことは、星本人だけでなく、すぐれた伝記の作者最相葉月の指摘するところである。星は全く関連のない二つのことばを紙に書き、それからアイディアを得ようとしていたという。アイディアのもととなることばを書きつけた厖大な紙屑の山を保存していたことを、遺品の整理を許された最相は伝えて、星という人はものを捨てたことがなかったのではないか、と述べている。星は短い作品にとってこそアイディアが重要なことを身にしみて知っていたのである。プロットについて右遠俊郎は興味深い見解を示している。短篇の中のもっとも短いものであるが、掌篇を目指した跡の見られない作品、たとえば葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」、梶井基次郎「桜の木の下には」、太宰治「満願」などを、右遠は超短編と呼び、新しいジャンルとしての掌篇への志向をもった作品、たとえば川端康成の掌の小説の或るものを掌篇小説と呼んで分けて考えている。たとえば川端の「夏の靴」は掌篇というよりは超短篇であるとする。なぜなら比較的よく物語が整っていて、主題としての人生の意味が問われており、人物の一人勘三は生身の厚さをもっているからである、と述べている。それに対して「海」の中の土方、「有難う」の中の運転手には役割だけがあって実像がない。それは人物の形象に失敗したのではなく、掌篇という構えのゆえに、初めから姿を消しているからだ、と右遠は指摘する。プロットの整ったものを右遠は超短篇と呼んだとも考えられる。掌篇という新しいジャンルでは首尾一貫したプロットを必ずしも求めないという指摘とも考えてよいだろう。

中国の論者は概してアイディアの新鮮さ、プロットの完全さをショートショートに特有のものではなく、短篇、長篇でも求められる重要な要素と考えている。意外な結末も必ずしもショートショートに特有のものではない。サドン・エンディングを多用したO・ヘンリーが書いた作品の多くはショートショートではなく、短篇であった。しかし、意外な結末、最後の驚き、ドデン返しは短い作品でこそ生きるものである。落語の落ちもそうである。

 本号までに翻訳し発表した作品のどれだけが結末の驚きという手法を用いているか確かめてほしい。有力な技法の一つであることがわかるだろう。

 もう一つ手法として重視する必要があるのはすべてを書ききらず、読者に想像と思考の余地を残す書き方である。言葉を換えていえば読後にどれだけの余韻を残せるかである。これは中国絵画でいう空白を残す手法と共通する。形式のところでとり上げた小説としては特異な抜き書き、対話、独白、書簡、シナリオという形式の作品が読者に訴えかけてくるのは、書かれていないことに想像の余地、言外の意があるからである。

短い作品が力をもつのは書かれていること以上に想像と思考を誘う余地がある場合である。すぐれた作品にはそれがある。