孫方友 作 京極健史 訳
朱老曹は鎮東朱庄の人で、先祖代々の骨接ぎの仕事は、とりわけ膏薬で名声を博していた。朱家の門前には槐の古木があり、膏薬の包み紙に印刷されているのは、この木だった。それが木版画でガリ版刷なのは今も変わっていない。朱家の膏薬は打ち身、捻挫によくきき、血行を良くして鬱血を治し、評判は潁河(1)の両岸に鳴り響いた。
朱家の骨接ぎは武術をもとにしている。朱家の人の武術は皆子供のころからの修業による。産湯のときには平手打ち、三歳にして半股立ち(2)。七、八歳になるころにはもういくつかの突き技と蹴り技を練習する。朱家では強靭な腕力が必要になるため、毎日二人で綱引き競争をし、負けた方が板でひっぱたかれる。誰もが負けたくはないので、互いにがんばり、しばしばがんばり続けること数時間、師匠がよしと叫んでようやく二人はやめることになる。その頃には腕はとっくに痺れてしまっているのだ。
彼らが膂力を鍛える目的は、体を頑丈にして身を守るためだけではなく、一番重要なのは接骨のためであった。朱家の接骨はほかと違って、全てにおいて力業にたよっている。誰かが足を折って、骨折部が互い違いになっていると、朱家では腕力にまかせて骨をひっぱり継ぎ合わせる。これには大変な膂力がいる。患者が悲鳴をあげるなか、ひっぱって真っ直ぐにすると、添え木を括り付け、石膏で固める。しばらく休んだ後で患者を無理矢理ベッドからおろして歩かせる。朱家の説によれば、骨接ぎにおける最良の方法は、骨自体を成長させることで、ベッドからおりて動くことにより、もっぱら骨を刺激し内分泌を促すのだ。この治療法は残酷なようだが、平癒までの時間が短くて、しかも治癒した患者はかたちんばにならず、若者は女房をもらいそこねることがなく、老人は杖をつかなくともよいというので、とても人気があった。日本が中国を侵略した二年目に、陳州が陥落したとき、ある日本人軍医が朱家の接骨法を発見してひどく驚き、無理矢理、朱老曹の父親に接骨法を伝授させた。その後日本が負け、この軍医は東京に戻って整形外科を開業し、今でも依然として朱家の接骨法を使っている。
朱老曹の父親は朱奎山といい、この出来事に腹を立て、とうとう怒りが昂じて人事不省となり、抗日戦六年目の初めにこの世を去った。その年、朱老曹はまだ二十代の若者だったが、すでに接骨の名手として評判は郷里に轟いていた。朱老曹は骨接ぎに優れているだけではなく、鍼治療も大した腕前で、腕を捻ったり、寝違えてしまった人には針を二本打ち「気を通す」。「気を通す」というのは朱老曹の口癖で、銀の針を二本の指の間でちょっと動かし、患者にこう言うのだ。
「こんなのたいしたことない、ちょいと気を通せばよくなるよ」
そういいながら針をつぼに刺し、捻りながらまた言う。
「ズンときたかね?」
患者「ズンときました」
朱老曹はまたきく。
「痺れるかね?」
患者「痺れます」
朱老曹は笑って言う。
「気を捉まえたぞ!」
言うや否やそっと針を持ち上げ、揺らして深部へと打ち込んで患者に命じる。
「息を吸って!」
患者が息を吸うと、
「もう一回息を吸って!」
患者がまた息を吸うと、気付かぬうちに更に深く針を打ち、患者がアーウーといっているうちに、突然針を抜いてこう言うのだ。
「よろしいでしょう!」
朱家の針治療はお代をとらない慈善事業だ。もし膏薬を貼る必要があればその時は値段に応じてお金を払ってもらう。膏薬の主な効能は血行を良くして鬱血を治すことにあり、骨を折った患者は石膏をはがしたあと、少なくとも一、二ヶ月は膏薬を貼って血行を良くする必要があったが、これは接骨医が現金収入を得るための重要な手段でもあるのだ。朱家の膏薬は酢を煎じて作るのだが、多くは夜の間の作業であるうえ、薬を配合する際には部外者の立ち入りを禁じていて、先祖代々の秘法は男の子にのみ伝えられ、女の子には伝えられなかった。朱家の接骨は評判がよかったので、診療所にはいつも患者があふれていた。朱家では十数室の病室を設え、食堂や売店も開いていたので、相当儲かっていた。
世の中どんな商売でも、お金持ちになった人はだいたい横道にそれたがるものだ。いわゆる横道とは、食う、飲む、買う、打つ、吸う、賄賂、脱税、横領、手抜き工事に情報漏洩(3)にほかならない。朱老曹は煙草も吸わなければ、酒も麻雀もやらなかったが、女遊びだけは好んでいて、三十五歳のその年で、すでに五人の妻を娶っていた。土地改革運動(4)のあと、朱家は地主、朱老曹は地主階級の一人とされ、五人の妻は一人だけ残すことが許された。朱老曹の考えではもちろん若いのを残したかったが、ところが上の方ではそうは思わず、最初に結婚した妻を残すよう命じたのだった。朱老曹は命令に逆らう気にはなれず、最初に結婚した妻である劉氏を残さざるを得なかった。このとき妻の劉氏は朱老曹の息子をすでに三人生んでいた。
劉氏の実家は朱集街の資産家だった。劉家もまた先祖代々の漢方医で婦人科を専門としていた。劉氏の父親には先見の明があり、金を稼いでも土地を買わずに、二人の息子が欧米の学問を学ぶことにつぎ込んだ。息子たち二人は在学中から革命運動に参加しており、それで劉医師もまた革命運動のシンパとなった。二人の息子は更に大したもので、一人は専区(5)の責任者、もう一人は県(6)の長官であった。こういう関係があったので、朱老曹は劉氏を怒らせるようなまねはできなかったのだ。
劉氏は劉医師の長女で、書物を読めて、理に明るい人であった。二人の弟たちは共産党の幹部になったが、姉のことをとても大事にしていた。朱老曹が年若い妻を手元に残そうとしていると姉から聞かされたとき、二人はとても驚き、姉の旦那はお粗末過ぎると思いつつ、村の工作隊(7)の隊長にこっそりと声をかけた。朱老曹はもちろんそんなことはつゆ知らず、依然として、自分は新しきを喜び古きを厭うているのに工作隊が反対するなんて!と思いこんでいた。
嫉妬かそれとも何かは、はっきりわからないが、二人の義弟は羽振りが良いのに、朱老曹は彼らのいいなりにはあまりならなかった。
舅の劉医師にはこの二人の息子しかいなかったが、今では二人とも役人になってしまい、劉家の医術はこのときから伝承者を失っていた。朱老曹はつけいる隙があると思って、長男を劉家にやり、祖父に付き従わせて医術を学ばせた。劉家の医術もよそ者には教えないしきたりだったが、残念ながら自分の息子二人はどちらも役人になってしまったので、劉医師は慣習を破って外孫に医術を伝えたのだった。
朱老曹の長男は朱歓といい、幼いころより頭は良かったものの、武術を学ぶことは大嫌いだった。毎日早起きして稽古し、夜も真夜中まで床につけないのに比べれば、祖父のところで医術を学ぶことの方が気楽であった。当然のことながら朱歓が医術を学び始めたのは業余のすさびであったが、本を読んだり『湯頭歌』(8)を暗唱したりしながら、祖父について漢方薬の知識を深め、薬の使い方を学んでいった。頭が良くて勤勉であったため、十五の年には『脉通』を暗記してしまった。
専区の責任者と県の長官になった二人の義弟たちは姉の旦那にちょっと文句があったが、姉のためにとやはり精一杯朱老曹の面倒をみようとしていた。県の長官となった方は以前朱老曹を県の人民病院の職につかせようとし、それから専区の責任者となった義弟は専区の病院の職へ押し込めようと乗り出したが、いずれも朱老曹に断られてしまった。ところが朱老曹は誘惑に耐えたものの、三人の子供達は皆父に叛くこととなった。長男の朱歓は祖父から数年間漢方医術を学んだあと、上海同済大学に合格し、成績が飛び抜けて良かったため、卒業後も上海に留まった。二番目と三番目は大学へは進まなかったが、しかしいずれも朱家の技を受け継ぎながら、一人は専区の病院へ、もう一人は県の病院へといってしまった。その後あの専区の責任者となった義弟が、省の首府へと移って地位も少なからず上がると、朱老曹の三人の息子達も自然と恩恵を受けた。朱老曹が六十歳になった年、息子達三人は皆 指導者となった。長男は上海衛生局の副局長、二番目は専区の病院の院長、三番目は県の病院へいったあとほどなく軍に入隊し、今では大佐のご身分にのぼりつめた。官位につくと仕事に没頭することになり、自然と武術や先祖代々の医術を疎かにした。けれども朱老曹と老妻の劉氏は頑固に家を守り続け、都会へはずっと出てこなかった。彼らはもともと、孫世代を呼び戻して先祖代々の技を継がせるつもりであったが、しかし孫達は誰一人として農村に戻りたいなどとは考えない。それで朱老曹は心底悲しんで、たびたび二人の義弟に電話し、いつも怒って言うのだった。「おまえたち二人はどうやら朱・劉両家の先祖代々の技を全て失わせたいのだな!見たところ役人稼業の方が医術の修行より良さそうだしな!」
朱老曹は八十四歳まで生きた。墓に埋めるとき、葬儀は盛大で乗用車だけでも何百メートルも列をなしたのであった。
(1)河南から安徽を経て淮河へ入る川
(2)足を踏ん張って立つこと。
(3)原文「五毒」。賄賂、脱税、公有財産の盗み取り、工事の手抜き、国家の重要情報の盗み取りを五毒と称し、それに反する五反運動が一九五二年春から展開された。
(4)封建的な土地所有制に対する改革運動。一九五〇〜一九五二年。
(5)中国の行政の単位の一つで、「省」と「縣」との中間に位置し、省または自治区が必要に応じて設けたもの。
(6)中国の行政単位の一つ。「省」「自治区」の下に位置する。日本の「県」よりも行政レベルが低く、規模が小さい。中国全土に約二千ある。
(7)特定の政策遂行のために臨時に組織されて現地に派遣されるチーム。
(8)「湯頭歌訣」は清代の医学書。古来の名医の薬法を集めて薬性を歌(韻文)にしたもの。
原題 「朱老曹」