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中国の微型小説(ショート・ショート)の翻訳集

 

 

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書評が『Fuji Sankei Business I 』(2019年1月7日号)に載りました

名作の条件――空白、余韻

渡邊晴夫

 

 微型小説は中国語で一千字から一千五百字くらいの作品がほとんどであり、中には五百字くらいのものもある。この少ない字数で一篇の作品を仕上げるのにどういう条件があるのだろうか。ショートショートの三要素、新鮮なアイディア、完全なプロット、意外な結末をはじめとして、いろいろな条件が考えられるが、紙幅の制約というこのジャンル特有の性格に焦点をあてて考えると、言外の余韻が一つの重要な条件になると考えている。

 

 汪曾祺「虐猫」(猫苛め)、陳啓佑「永遠的胡蝶」(永遠の胡蝶)、劉連群「人到老年」(年をとると)、邵宝健「永遠的門」(開かずの扉)、曹乃謙「莜麦稭窩裏(莜麦の茎のねぐらで)」の五篇の作品からそれを見てみたいと思う。

 

 汪曾祺「猫苛め」は同じ集合住宅に住む四人の少年の文革中のひと時を神の視点から描いた作品である。いま小学校三年の彼らは、小さいときからいっしょに育ち、幼稚園も小学校もいっしょだ。そのうち三人の父親は造反派で、一人の父は走資派だが、少年たちはそんなことは気にしないで、前と同じようにいっしょに遊んだ。しつける大人がいなくなったので、セミやオタマジャクシをとり、学校の窓ガラスを割ったり、パチンコで先生の頭の後ろを撃ったりした。走資派のお父さんが引き回されたときはずっと行列の後をついて行った。その後子どもたちは猫をいじめるようになった。尻尾に爆竹を結び付けて火をつけたり、牛乳瓶の蓋を猫の四本の足の裏に貼りつけて滑って歩けなくしたり、ひげをハサミで切ってくしゃみを止まらなくさせたりして面白がった。その後は猫を六階から投げ落とすという簡単な方法を思いついた。もがきながら悲鳴を上げて落ちて行った猫は地面に叩きつけられて死ぬのである。一人の子どもの父親(走資派)が六階から身を投げた。救急車がその人を運んでいったあと、子どもたちは落とそうとしていた猫を逃がしてやった、と作品は結ばれている。この作品は子どもの行動を客観的に、簡潔に描くだけである。いわゆる「白描」という描き方である。猫をいじめる遊びが次第に簡単で残酷になっていくのを描くことで、子どもの荒廃が浮かび上がる。大人と同じように子どもも頽廃することが簡潔な描写で淡々と描き出され、文革のもたらす非人間性が浮き彫りにされるが、最後に子どもが猫を投げ落とすことをやめて逃がしてやる結末は、子どもが大人ほどは頽廃していなかったことを示して、救いとなっている。文革を直接批判する言葉はもちろん一つも使われていない。子どもの遊びの様子を客観的に描くだけで文革批判が達成されているのである。

 

 この作品を支えているのは作者の現実を見る目の確かさと現実の中にある子どもの姿を客観的に描き出す言葉の的確な選択である。もちろんその二つは一体化している。描かれている世界の背後にある現実、描かれていない作品の背後の空白は小さくない。空白とは想像する余地であり、読者は描かれている世界の背後にある現実をさまざまに思いやらざるを得ないのである。作品世界を構成する言葉を作者はきわめて禁欲的に選んで、作品をつくり上げたといえるだろう。書かれていることの行間に多くの余韻が含まれており、さらに書かれていることの背後に大きな世界の存在を感じさせる作品である。

 

 陳啓佑「永遠の胡蝶」は「実は雨はそれほどひどく降ってはいなかったが、一生の中でいちばんひどい雨だった。」という文で始まる六百字足らずの極短篇である。雨にぬれた道路を横切って一本しかない傘をさして櫻子は私のために道路の向かい側のポストに手紙を入れに行ってくれた。「鋭いブレーキの音とともに櫻子の一生は軽がると舞い上がり、ゆっくりと湿った路面にまるで胡蝶のようにひらひらと落ちた。」呆然と自失して涙をあふれさせる私の目の前ですべての車が停まり、人びとが道路の中央に押し寄せるが、そこに横たわっているのが私の胡蝶であることを知る人はいない。雨が私の眼鏡に降りそそぎ、私の命に降りそそぐ。傘をさし、白いウインドブレーカーを着て静かに通りを渡ってゆく櫻子が私の目に見える。南部に住んでいる母に宛てた手紙には「お母さん、私は来月櫻子と結婚するつもりです」と書かれていたことを櫻子は知っていただろうか、と作品は結ばれる。

 

 この作品では櫻子を胡蝶とよぶ形容が二度繰りかえされて、「私」の哀惜を示す。「私」の眼鏡に降りかかる雨も二度使われている。一度目はただの描写として、二度目は「私」の悲しみを象徴するものとして。道路を向こう側へ渡っていく櫻子の姿も二度描かれる。一つは感情を含まない客観的な叙述として、もう一つは私の目の前に残像のように浮かぶ幻として描かれる。それは私の哀惜と悲しみのなせる業である。南部の母に宛てた手紙も二度言及される。一度目はさりげなく、二度目は私の悲しみをかき立てる象徴として。冒頭の「実は雨はそれほどひどく降ってはいなかったが、一生の中でいちばんひどい雨だった。」という一文は、「私」の心象として末尾でももう一度くり返されている。すでにおわかりのように、この作品は詩の技法で書かれている。同じ語句の形を変えたくり返しは、一種のリフレインである。作品末尾の一文は最後に「私」と櫻子の関係を明かして、悲しみと喪失感の深さ示す効果的な結末となっている。ことばは簡潔で含蓄に富み、描き出されている内容以上の余韻をもち、読者に想像する余地を十分に残した作品である。

 

 劉連群「年をとると」は、「彼」という人物が台所で食器を洗っているところから始まる。流しの上に掛った鏡に映る顔色はよく、両方の鬢と額の生え際に白髪があるだけで髪の毛は黒々としている。友人や知人は五十をこえた人には見えないという。訪ねてきていた娘一家を見送るため妻が集合住宅の扉を閉めて階段を下りて行く足音が遠ざかるのが、聞こえる。そういう時いつもテレビを消す妻に不満を感じるが、ふと自分も見送ろうとベランダに向かって慌てて走る途中で、躓いて倒れそうになった。なんとか踏みとどまった瞬間に亡くなった母を思い出す。晩年の母は団地で一人暮らしをしていて、私たち一家が訪ねてゆくと、喜んで、なんでもいっしょにしようとしたものだ。ベランダに出ると、娘一家が団地の建物の前の道を遠ざかってゆくうしろ姿が見えた。手を振っている妻にならって彼も手を振って声をかけようとした瞬間、耳元で震える声が響いた。母が孫である娘にかけた声で、それを耳にすると彼はいつも娘に返事をさせたものだ。足の不自由だった母が、彼の一家三人が階段を三階分降りる間に、いつもベランダまで出て見送ってくれたのは、いま考えると不思議だ。

 

 暮れゆく空を見ながら思いにふけっていた彼は妻に声をかけられて、部屋に入る。台所の鏡に映った髪が雪のように真っ白になっているのを彼は見た。

 

 この作品は短い時間における「彼」の想念とほんの少しの行動を追う形で書かれている。躓いて晩年は足の不自由だった母をふと思い出すところから、この作品が一人の老年にさしかかった男を「意識の流れの手法」を使って書いた作品であることがわかる。晩年いっしょに暮らすことのなかった母の生活と淋しかったであろう気持ちと自分の老いと重ねて思いやる彼の心情は、直接書かれてはいないが、悔いと懐かしさと哀しみに満ちているようである。自分の髪の毛に対する印象の変化は、母を思い出すことで彼の老いの自覚が一気に深まったことを示している。作者は彼の行動と妻に対するささやかな不満とふと思い出した情景を目に見えるように描くだけで、彼の内心を描くことはしていないが、読者は彼の母に対する心情と老いの自覚を十分に思いやることができるの。

 

 邵宝健「開かずの扉」は、江南の古い街のアパートに住む中年の独身の男女の愛とも言えぬ、さりげない関わりを描いた作品である。すらりとした身体、うりざね顔、色白で整った目鼻立ちの四十過ぎの女性は、街の花屋で働いている。その隣の部屋には、茶色く縮れた、もじゃもじゃの髪、痩せこけた顔と肩と手をもつ四十五、六の男が住んでいる。彼は映画館で看板の絵をかいている、うだつの上がらない絵描きだが、大きな二つの眼には若さの輝きがあった。二人はすれ違うとひと言挨拶は交わすが、それ以上の関係には進まないようだ。二人が結ばれることを願っている隣人たちは、いつも期待を裏切られ、落胆する。秋になって雨の降る朝、二人はいつものように短い挨拶を交わしたが、夕方男の方は帰ってこなかった。仕事中に心臓の発作で倒れて亡くなったのだ。アパートには泣き声が響いた。女は泣かなかったが、眼はまっ赤だった。女は大きな花輪を贈り、数日後に引越していった。身よりのない男の部屋を片づけに集った人びとは隣の部屋との境の壁に立派な扉がついているのを見て、驚き、女性と結ばれることなく終わった男への深い同情は、裏切られた、という憤懣に変る。扉の取っ手に手をかけた人がまた驚きの声を上げる。その扉は壁に描かれた絵だったのだ。作品は結末の部分で二度の驚きを配置したサプライズ・エンディングの構成をとっている。壁に書かれた扉は隣の部屋に住む女性への男の願望を象徴し、女が男の死に眼を赤くし、大きな花束を贈ったことは女の気持ちを表している。お互いに思い合いながら結ばれることなく終わった中年の男女の哀れさを読者は感じとる。男の女への気持ち、女の男への気持ちは、読者の想像にまかされているが、作品は想像する余地を残しているのである。

 

 曹乃謙「莜麦の茎のねぐらで」は、月夜に莜麦の茎を積み上げた中にもぐりこんで語り合う若い男女の語らいを簡潔に描いた作品である。貧しい男は恋人を妻にする金がないだけでなく、このさき結婚する望みさえ持つことができない。貧しい女は炭鉱で働く、稼ぎのある男に嫁ぐことになっているが、結婚したら貯めたお金を取っておいて男の結婚資金にあげるという。男は要らないといい、女は貯めるという。要らないという男に、女は貰ってほしいといい、泣きそうになる。女が口づけを求める。何の味がするかという問いに、男は莜麦の麵の味と答える。氷砂糖を食べてきたから、と女は男の顔を引き寄せる。積極的な女は今夜はあれをしたいと求める。男は月が見ているからと拒み、この村の娘はそういうことをしてはいけない、とたしなめる。女はじゃあいつか、私が帰ってきた時に、といい、二人は黙りこむ。女が私たちは運が悪いというと、男はおまえはいいが、おれはよくない、という。いい、よくない、というやり取りのあと、女が泣くのを聞き、男も涙をこぼし、その涙は女の顔に滴った、と作品は結ばれる。必要最小限の簡潔な描写と短い会話から成り立っている作品である。同じ語句が詩のリフレインのようにくり返されているが、全体は簡潔きわまりない表現から成っている。語彙には方言が巧みに用いられている。口づけ、性の交わりも、前者は「唬儿」、後者は「做哪个啥」である。短い表現の積み重ねが描きだす作品の空間は狭く小さいが、そのテキストの背後にひろがる世界は決して狭くはない。描かれていない空白、読者が想像する余地は広いと言ってよい。若い男女の愛と哀しみが素直に読者の胸に伝わってくる力をこの作品はもっている。

 

 

 以上の五篇はいずれも名作と言ってよい作品である。簡潔な言葉で人物の言動を目に見え、耳に聞こえるように具体的に描き出しているテキストは、描かれていること以上の余韻をもち、読者が想像する余地を豊かに残している。デッサンに似た白描という簡潔な表現、テキストの内包する空白、読後の余韻、読者に想像する余地を残していることは、名作の一つの条件と言えるのではないだろうか。