史鉄生 作 久米井敦子 訳
「こんなに長く待って、ついにあなたと出会ったわ」彼女が言った。
「僕は生まれたと同時に君をさがし始めたような気がする。自信がなくなるほど待っていたら、突然、君を見つけたんだよ」彼が言った。
「信じられない。運命の神様があなたをくださるなんて、そしてこんなに幸せを感じるなんて」
「運命の神様には本当に感謝しなくては。あの日、もし彼が選んでくれなければ、僕たちはきっとすれ違っていた。そして二度と会えなかったろう」
「そのとおりね、あのおじいさんのおかげだわ。それに、彼がかぶっていた麦わら帽子、そしてあの風のおかげ」
風はもう存在しない。そこで二人は老人にお礼を言いに行くことにした。老人は夕方いつも一人で湖のほとりに座り、湖を、そして遠くの森や空を眺めていた。あの日、二人は老人のかたわらを通り過ぎた。彼女は南へ、彼は北へ。二人がちょうどすれ違おうとした時、風が老人の麦わら帽子を吹き飛ばした。帽子は湖岸伝いに転がった。彼女は追ったが、帽子は湖に落ちた。彼は湖のふちに駆けよって、ズボンをまくり上げて水に入り、帽子を拾い上げた。二人はこうして知り合った。そしてお互いに、相手こそがまさに長年探し求め、待ち続けた人だと気付いた。今、二人は夫婦になっていた。
彼らがまた湖のほとりを訪れると、老人は夕日の中に座り、静かに遠くを眺めていた。二人が恭しく来意を告げると、老人は目を閉じ、しばらく沈黙してからたずねた。
「あんたたちは、いつか子供を持つのだろう?その子も、その子の子供もいずれは子供を持つのだろう?」
「はい」
「わしには代々みんなの幸せまで保証できんよ。この帽子をここに埋めておけば、彼らの中で不幸なやつがやって来て、元凶を探し出すかもしれんな」
(一九八八年)
原題 「草帽」