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書評が『Fuji Sankei Business I 』(2019年1月7日号)に載りました

婁城の逸物

凌鼎年 作 江林佳恵 訳

 

婁城の陸慕遠の家は代々医を生業とする家系であった。父親は漢方の開業医で、特に婦人科の診断では婁城随一であった。例えば、子宮出血、産後の貧血、月経痛、生理中の不正出血、閉経、生理不順、生理中の頭痛、子宮頚管炎、産後出血、産後の腰痛、そして不妊症、子宮外妊娠などについて、家に代々伝わる門外不出の処方と医術の奥義を持っていた。

 陸慕遠は父親の業を継いだあと、婦人科の秘法をほり下げて研究する以外『黄帝内経』『本草綱目』『神農本草経』『医家金鑑』『千金方』など、一連の古い医学書を学んだが、読めば読むほど満足できなくなった。

 その後彼は西洋医学のことを伝え聞いて、西洋医学に興味を持った。彼の父親は西洋医学をよしとしなかった。漢方医学の伝統は悠久で、数千年の歴史があるが、西洋医学は数百年の歴史しかない。西洋医学は注射を打ち、対症療法で症状を抑えるが、病気の本を直さない。これでどうして漢方医学と匹敵することができようか。父子はこのことで常に顔を真っ赤にして議論をしたが、どちらも相手を説き伏せることができなかった。

 当時はちょうどアヘン戦争に惨敗した時で、国中の誰もが衝撃を受けて、維新思想が台頭した。維新思想の影響を受けた清王朝の恭親王奕訢は外国語学校の同文館を設立し、自前の翻訳者、通訳を育成し、西洋に精通した高級官僚やハイレベルの技術要員を育成することを決めた。

 陸慕遠はその話を聞くと少しも躊躇わずに外国語学校同文館への入学を申し込んだ。これに父親はひどく腹を立て、こんな独り言を言った、立派な漢方医学を勉強もせずに、わざわざ西洋医学や毛唐の言葉などを学ぶなんて、代々伝わって来た医家の家名を自ら汚すようなものではないか?しかし息子が成人したのであれば、若い人のやることを結局やめさせることはできない。

しばらくして、陸慕遠は大清王朝の最初に国を出て外国で学んだ人になった。出国後彼は大いに見聞を広げ、これまでの見たことのなかった多くの西洋の薬を目にし、聞いたこともない多くの医療機器を見て、彼は漢方医学と西洋医学にはそれぞれすぐれたところがあるという見方をいっそうかためた。

 三年後、陸慕遠は英国から学業をおえて帰国し、婁城で最初の外国語を話せる洋行帰りとなったので、自然と若者たちが彼を尊敬するようになり、彼を模範と見なした。 

 友人達は陸慕遠の帰国を祝う宴会を開き、その席上で、外国での見聞を披露するように彼にすすめる人があった。

 陸慕遠はちょっと考えてから言った、「一番面白いのは腎衣だ。これは十七世紀のイギリスの医師コンドームが発明したもので、羊腸の外膜でできている。それをかぶせると子供が生まれないようにすることができる。」

 その場にいあわせた多くの人々には、何を言ってるかはわからなかった。陸慕遠は親指をたとえにして、それをかぶせた……。

 一座の人々は話を聞き興味を持った。外人の頭はなかなか大したもんだと思いながら、みんなで大いに盛り上がった、大いに笑い、どぎつくない冗談を楽しんだあと、「腎衣」という新語を持ってそれぞれ帰っていた。

 それから陸慕遠は婁城に戻って、陸氏医院を開業し、ひそかに「腎衣」を人々に普及しはじめた。

 この事がつたわると、まず陸慕遠の父親が反対した。父親はきびしい口調で言った「お前が毛唐の言葉を習い、毛唐の知識を売り物にするまでは我慢した。だが、どうして人をそそのかして腎衣などを使わせるのだ?古い言葉に『不孝には三ある、跡継ぎがないというのが最大の問題だ』というのがある、お前が人に子孫を残さないようにし向けているのは、もっとも罪が重い。よく考えてから行動しなさい、民衆の反感を買って攻撃されるようになったら、この婁城にいられなくなるぞ。」

 陸慕遠は父親と議論はせず、依然として自分のやりたいことをやった。父親は息子が外国のことを学んだために頭がおかしくなったのではないかと疑った。

 陸慕遠は最大の反対が自分の家から出ようとは夢にも思わなかった。若い時から連れ添って来た彼の妻は陸慕遠が房事に腎衣を使おうとするのを見ると、どうしても承知せず、受け入れなかった。彼女は泣きくずれ、自分の夫を化けものだとみなし、腹を立てて、実家に逃げ帰ってしまった。実家では何があったのかと問いただしたが、彼女は恥ずかしくて、ありのままに答えることもできなかった。ただ陸慕遠は楼城で一番の変人であり、外国で勉強をしたためにおかしくなった、と非難した。

 陸慕遠は弁解もせず、依然として腎衣の普及に尽力した。

 事実は一番の証明となった。家に三人も四人も子供が生まれると、日に日に生活が苦しくなる。効果があることをわかると、誰もが腎衣を信じるようになった。陸氏医院に自分で買いに行くのが恥ずかしい人は、友人に頼んで買ってきてもらった。次第に腎衣を使うことは、婁城の人々にとって恥ずかしいことではなくなった。ある中年夫婦のとっておきの宝となり、新婚の子供に教えるまでになった。

 陸慕遠医師について、保守派の人々は、彼のよくないところは西洋に留学をして、西洋のものを学んだために、人間がすっかりおかしくなり、そのおかしさはひどいものだ、という点にあった。革新派は、陸慕遠医師のために将来、記念碑が建つかも知れない、と言った。いずれもただそう言っているにすぎなかった。

 

 追記:婁城は今や日本と提携を結んだ全国家族計画モデル都市である。日本の家族計画の量と質の課題グループの研究報告書によれば、婁城の産児制限の歴史は長く、清代の陸慕遠まで遡ることができる。陸慕遠の功績は大なるものがある……

 

 原題 「婁城一怪陸慕遠」